創業社長である舩木上次がROCKをオープンしたのは1971年。しかし、そのルーツとなるスピリッツはそのさらに前、清里の開拓時代から受け継がれるものです。そして清里の開拓者スピリッツは現在、ROCKに集った若いスタッフにも継承されています。
東京都の人口増加に伴い必要になった水源確保のため、山梨県の丹波山村および小菅村の一部がダムとして奥多摩湖に沈むことが決定。その際、住民の移住地として選ばれたのが、当時荒れ地であった清里でした。
後に清里開拓の父と呼ばれる「ポール・ラッシュ博士」が清里へやってくる。清泉寮、キープ協会を立ち上げ、清里の開拓に従事していきました。
ROCKの創業者であり、現・萌木の村株式会社代表取締役の「舩木上次」が清里で誕生。父親がキープ協会の農場長だったことから、舩木も幼少期から「ポール・ラッシュ博士」とふれあいながら育ち、その精神やホスピタリティなどを学びました。
厳しい開拓生活者を励ますためにポール・ラッシュ博士がカンティフェアを始めました。カンティフェアとはアメリカで古くから行われている収穫感謝祭。明日への希望を持って挑戦する人々を勇気づけるお祭りとして愛されました。
300万円借金をして開店にこぎ着けました。創業当時のROCKは、鉄骨のベースの上に床が板一枚というほったて小屋のような建物で、すきま風もひどく、冬は店内の水道が凍結してしまうほどでした。
最初の3年間は冠婚葬祭にも顔を出せないほど貧しい状況でしたが、ようやく経営的にも先が見えてきたころ、1200万円かけて店内の改装に着手しました。見た目は変わりませんでしたが、念願の断熱材を入れ店内環境が改善しました。
「ポール・ラッシュ博士」が82歳で逝去。現在その遺骨は清里聖アンデレ教会納骨堂に納められています。
清里が『an・an』や『non・no』といった女性誌に取り上げられるようになり、若い女性を中心に観光客が急増しました。タレントショップが立ち並ぶなど観光地化も進み、バブル期には「高原の原宿」と呼ばれるほどのブームになりました。
~八ヶ岳カンティフェア~」復活
一時中断していたカンティフェアが、「ポール・ラッシュ博士」の清里到来50周年を記念して復活。名称も「ポール・ラッシュ祭~八ヶ岳カンティフェア~」と改め、博士の功績と1年の収穫へ感謝するイベントとして再び愛されることになりました。現在では2日間の開催期間で来場者5万人を数えるイベントとなっています。
バブル崩壊とともにブームも終焉を迎えます。80年代に出店した店舗も次々と閉店していきました。
酒税法が改正され、小規模でのビール製造が可能になったことで、全国で地ビールブームが始まりました。舩木もクラフトビールに興味を抱き、翌95年には7億円の借金をしてブルワリー併設の新店舗建設計画を立てました。
店内に醸造施設を併設するレストランとして2代目店舗がオープン。ブルワリー併設レストランは当時山梨県内では初、日本全国でもまだ珍しいものでした。
IBCインターナショナルビアカップ世界金賞
「ROCKのビールは生産地である清里で飲むもの」というポリシーから長らくアワードへは出品してきませんでしたが、2014年ごろからアワードへの参加を開始。翌年には「プレミアムロック・ボック」が世界一に輝きました。
ワールドビアアワード
ワールドベスト 世界一位
「プレミアムロック・ボック」に続き、今度は「清里ラガー」が世界一となりました。
8月8日の深夜に出火した火災により、店舗が全焼。招集されたスタッフは燃え上がる店舗を見て茫然自失となるも、火事当日に舩木が再建を宣言、スタッフが一丸となって未来に向かって歩き出しました。
火事から1年も経たない2017年6月9日、三代目にあたる店舗がオープン。店名もこのとき「萌木の村 ROCK」に改められました。